by:ばらもす
「メタ」という言葉は、今時のTRPGを遊んでいる人なら、耳にタコができるほど聞き慣れた言葉だと思う。
なんだけど、新しいゲーム仲間を迎える度に、説明に苦労する概念でもあったりする。
こういう、基本中の基本みたいな部分って、今更すぎて誰も詳しい説明をしようとしないので、「とりあえず、はじめてのプレイヤーにはこれ見せとけばいいや」的な解説文が、ネットに落ちてないんだよね。基本をすっとばした先の話から始めてる応用編の文章なら、結構たくさん見つかるんだけど。
とかいいつつ、自分自身も、まとめて文章起こしたことなかったり。
なので、言い古された内容ではあるけれど、「メタの基本説明文」を作成してみた次第。
Karmaのブログにせよ、公開オンセログにせよ、うちの卓は、メタを重視したプレイスタイルに特化しているので、興味がある人は、ぜひ目を通してみてくださいな。
つか、ログ見たTRPGやってない知り合いに、「専門用語がわかりません」という感想もらったのが、直接の動機だったり。
プレイヤーキャラクター(PC)の思考の背後には、キャラクターを演じるプレイヤー(PL)の思考がある。
PCとPLは、同一の存在ではなく、それぞれ別の視点を持っている。PCは物語の中の世界の住人だが、PCを操っているPLは物語の外の世界の住人であり、「物語の中の世界を、物語の外から眺めている」わけだ。
こういう、「実態の裏側にあるもうひとつの概念」を、「メタ」と呼ぶ。
詳細は、このリンクを見て欲しい。燃料の方じゃなく、「オブジェクト指向言語」の方の説明ね。
TRPGにおける「PC」と「PL」の関係も、典型的な「メタ構造」だ。PCの後ろに、「後ろの百太郎」のようにPLが張り付いて観察している、そういうイメージでOK。
更には、「PCが傷を負った」と「HPが減った」など、「PC」と「システム」の関係も、まったく同じメタ構造。「PCの健康状態」というビジュアルイメージの後ろには、「データ」が張り付いているわけだ。
TRPGとは、本質的に、「仮想」と「現実」のメタ構造から出発している遊びだとも言える。
この、「PC視点の背後にある、PL視点」が、「メタ視点」。
そして、「PC視点の背後にある、PL視点」を利用したプレイスタイルが「メタプレイ」、「PL視点」を利用したセッション進行が「メタ進行」だ。
PLは、「PCの立場では知り得ない情報(=メタ情報)」を、大量に持っている。
なんといっても、PLは、PCが活動する世界が現実ではなく、「ゲーム内の架空世界」であることを知っている。
そして、セッション中にPCが直面する事件が「シナリオ」に沿ったものであり、ゲーム中のPCの行動が「物語を生み出していく」ことも知っている。
更にPLは、「物語」がどういうものであるかを、知っている。
良質の物語は、無駄がない構成で、流れるように展開していく。起承転結(「山」や「落ち」、序盤から張った伏線など)やテーマ性を破綻無くまとめ、魅力的なキャラクターや軽妙な掛け合い、派手なアクションや人間ドラマが演出される。
物語は、現実と似ているようでいて、その実、決定的に異なっている。
物語は、「作者の綿密な計算」を背景に、作為的に「創り出される」のだ。現実世界には脚本や演出は存在しないが、物語には存在するのである。
PCにとっては、物語世界は、「現実と同じ」だ。
「物語世界の登場人物」たるPCには、自分の居場所である物語世界のありようを、客観視できない。
だから、「PC視点」にひたすら忠実に、「キャラクターになりきって」行動選択するだけでは、良質の「物語」はつくれない。
(結果的に良質の物語に仕上がったとしたら、それは、「脚本家」であるGMが気付かれないよう状況をコントロールしてPCを誘導し、「実質的に、GMがPCを操作した」というだけのことだ)
しかし、PLにとっては、物語世界は「現実」ではなく、そのまま「物語世界」である。
「物語世界を外から見ている」PLは、PCの居場所である物語世界のありようを、客観的に俯瞰している。
だから、「PC視点で熱演する」行為と並行して、「PL視点で物語の流れを計算しながら」行動選択を行うことで、良質の「物語」をつくっていけるようになる。
だから、「物語を外から眺めるPL視点」、すなわち「メタ視点」は、「PL主導の物語づくり」を目指す場合には、とても重要なテクニックになってくる。
言い古された例えを出せば、「ヒロインが途中で攫われ、PCが救出する」シナリオがあったとする。
PC視点に立てば、ヒロインが攫われるなど許せないことだから、攫われる場面を全力で拒絶するしかない。
PLが「メタ視点」を使わない場合、PCは、全力でヒロイン誘拐の阻止に走ることになる。
しかしPL視点(メタ視点)に立てば、ヒロインが攫われるシーンは途中経過に過ぎず、クライマックスで救出できる(だろう)とわかる。ここでヒロインが攫われなかったら以後の展開が台無しになり、シナリオがなくなってしまうかも、と冷静に判断できる。
だから、PLが「メタ視点」を使う場合は、「PCは阻止しようとしたが、力及ばず攫われた」的な演出をすることになる(いわゆる「負けロール」)。
更に手馴れたPLなら、ヒロインが攫われる前に絆を深めるイベントを自分で起こすなど、後々に救出場面を盛り上げる「演出」や「伏線」まで、自分で発案して序盤から仕込んでしまうだろう。それは、「救出時の展開を、PLから提案する」ことにもなり、「PLサイドで、クライマックスまでのシナリオを書く」結果をもたらすことも、ままある。
実にありきたりな例だが、これが「物語を外から眺めるPL視点(メタ視点)」の効能だ。
参加者すべてが協力して、スムーズに流れる物語に仕立てる効果も大きいが、それだけではない。
PL主導の追加演出を可能にし、場合によってはエンディングまでの流れを、PLサイドから大きく書き換えることにも繋がるのだ。
最近のTRPG、特にFEAR系のTRPGには、こうした「物語を外から眺めるPL視点」を支援するテクニックが、発達している。
自分は、勝手に「メタ進行テクニック」とか呼んでいる。
ここでは、代表的なものを、概要だけ簡単に列挙していきたい。
シナリオの概要を、あらかじめPLに予告する手法。
FEAR系のTRPGでは、大抵はシステム実装されていて、『アリアンロッドRPG』では「今回予告」、『トーキョーN◎VA』では「アクトトレーラー」と呼ばれている。
これにより、PLは事前に、シナリオの大まかなストーリーを知ることができるようになる。
いわば、「物語の方向性を、PL向けにメタ提示する」技術だ。
その結果、PLは、先の展開を予想して、能動的なアクションをかけることができるようになる。
典型的なのは、さきほど書いた、「ヒロインが攫われる展開」の例だ。
今回予告で「ヒロインが攫われた、救出に行く」とやり、PL向けに「シナリオ展開のメタ情報」を渡しておけば、PCが全力で阻止に行くような事態を防ぐことができ(誘拐はオープニングフェイズで処理するようにすれば、なお良い)、かつ、救出時の伏線を張る等の「PLサイドからの先読みアクション」もできるようになる。
この「PLサイドからの先読みアクション」は、「PL発案の、ストーリー展開に対するリクエスト」でもある。
元々が、予告のストーリーラインをベースにしているため、GMの考えていた展開と細部が異なっていたとしても、シナリオに受け入れ易い。その結果、「物語の方向性をPLが決めていく」結果にも繋がっていくわけだ。
セッションを、オープニング・ミドル(リサーチ)・クライマックス・エンディングという一連のフェイズに分類し、PLに告知する手法。
これにより、PLは常に、現在プレイしている場面が、シナリオの全体の「起承転結」の流れの中で、どの位置を占めているのかを知ることができるようになる。
いわば、「物語の起承転結を、PL向けにメタ提示する」技術だ。
各フェイズは、PL視点による「起承転結」の意識を強調し、自覚させる効果を持っている。
特に、「起(オープニング)」「結(エンディング)」の専用フェイズを設ける意味は大きい。演出色が強く、「問題解決のゲーム部分と関係が薄い」ために、純粋に「起承転結」に意識が向きやすい利点がある。
また、伏線の技法に代表されるように、演出や構成の出発点は「終盤(エンディング・クライマックス)」にあることが多いので、PLにあらかじめ「エンディングを自由に演出する機会を用意しているよ」と告げておく効果は、絶大だと思う。
PLが「終わり方のイメージを持ってプレイする」ことに成功すれば、生きた演出がバンバン飛び出してくるようになる。
例えば、「戦友の墓の前で、宿敵を倒した報告をする」というEDをイメージしているPLなら、これくらいの演出は可能になる。
セッションの途中で、胸につけているペンダントを、さりげなく仲間に見せておく。クライマックスで宿敵から攻撃を受けたとき、「致命傷になる筈だったが、たまたまペンダントに当った。ペンダントは壊れてしまった」と勝手に描写を付け足す。そして仕上げに、EDで戦友の墓にそのペンダントをかけ「返すよ。お前が守ってくれたんだな」と言って終わる。
・・・・・・「ストーリーの締めくくり方」を自由に決められることで、PLサイドから行うことができる演出の幅は、とても広がるのだ。
また、PLが「物語の流れ」を自覚しないまま漠然とプレイした場合でも、PCの行動は、自動的に「物語全体の流れ」に沿ったものに落ち着いていく。
「シーンの短期的目標の提示」の効果だけでも、なかなかどうして、捨てたものではないのだ。
オープニング/エンディングフェイズでは、PC毎の個別導入/個別エンディングを設けることも多いが、これにより、メインストーリーとは別に、「PC個人の背景ストーリー」を演出しやすくなっている。
セッションのメインストーリーは、基本的にGMが作成し、他のPLと共有するものなので、PLサイドからの物語づくりでは、「他人のアイデアに、自分のPCの背景を重ねる」技術が必要になるが、PC毎の個別導入/個別エンディングの場合は、かなりお手軽に個人ストーリーを表現できるのだ。
セッション中の場面を、「シーン」という単位で区切り、場面が変わる度に流れを切って仕切りなおす手法。
「シーン」は、場所が飛んだり、時間軸が入れ替わったりしても構わないだけでなく、登場人物にすら囚われない「場」になっている。PCが登場しない「マスターシーン」という手法は、シーン制の特徴だろう。
シーン自体は昔のTRPGで無自覚的に行っていたことにすぎず、決して目新しくはない。シーン制でないTRPGも、結局は物語的に必要な場面だけ抽出して進行していたわけで、「すべてのTRPGは、シーン制である」とも言える。
だけど便宜上、この項で言う「シーン制」はいわゆるFEAR系システムのシーン制、「シーンの目的を、GM/PLに意識づけ、自覚的にコントロールさせる」技術を指すものとして、取り上げたい。
それはいわば、「セッション中の場面を、目的を持った場面として、PL向けにメタ提示する」技術だ。
映画等で使われる「シーン」という言葉のイメージは、とてもデジタルで、人工的で、作為的だ。
場面としての明確な目的を持ち、物語全体の流れや画面効果を計算し尽くして配置されている。物語全体を俯瞰する視点から、シーンの意味(存在価値)を常に問われているのは当たり前の感覚であり、無駄/冗長なシーンはカットされてしかるべきものとされている。
シーンとは、「無自覚に(漠然と)シナリオを分割してみた」だけの代物ではなく、物語を俯瞰する視点を背景に、「自覚的な計算のうえで(明確な意図を持って)配置/操作される」ものなのだ。
いわゆるFEAR系システムの「シーン制」も同じで、「物語内におけるシーンの目的」を「メタ視点で確認しながら進行」させていく、そういう部分に特徴がある。
FEAR系シーン制スタイルでは、シーンは明確な意図を持って配置され、主役/脇役が整理され、PLは自覚的に登場をコントロールする(メタ視点による判断で、あえて登場しないことも多い)。
かつての非シーン制TRPGが、メタ視点に無自覚的で「PCにとっての現実」という色を強く帯びていたのに対し、FEAR系シーン制スタイルは、メタ視点に自覚的で「GM/PLが、物語世界の外から操作/演出した『画面』」という感覚が強い。
説明者の力不足で感覚的なお話に終始してしまい申し訳ないが、全体に、とても脚本家的・監督的な印象を受けるのだ。
「シーン制」を土台とし、更に進めたメタ進行技術は、多数ある。
真っ先に取り上げるべきなのは、「シーンへの登場判定」だろう。
これは、PCがシーンに登場するか否かを、PLの宣言によって発案し、ルール的な判定(又はGMの裁量)により成功/不成功を決めるシステムだ。
例えそのシーンが、PCとまったく無関係のマスターシーンであっても、GMが許せば登場できるようになっている。
この「登場判定」は、「過去の常識を覆した」という意味で、TRPGの現状に、とても大きな影響を与えた概念だと思う。
シーンという「舞台」の裏には「舞台裏」があり、GM/PLは物語全体を俯瞰して、「PCを、舞台裏から舞台に送り出している」。それは、「PL視点」からのセッションコントロールを、PLに強烈に自覚させる仕掛けに他ならない。
それはいわば、「舞台と舞台裏の使い分けを、PL向けにメタ提示する」技術だ。
シーンの本質が「舞台(=画面)」であることを、強烈にPLに印象づけてしまう、FEAR系シーン制スタイルの大黒柱といえる概念だろう。
それから、「シーンプレイヤー」の宣言、というものもある。
これは、そのシーンの主役がどのPCであるかを宣言し、他のPCとの扱いに差をつける(シーンプレイヤーを優先する)方法論だ。
シーンは基本的にシーンプレイヤーのものであり、基本的に、シーンプレイヤーが目的を達成すれば、シーン終了となる。
いわば、「シーンの主役/脇役という区分けを、PL向けにメタ提示する」技術だ。
「シーンプレイヤー」の宣言は、本質的に、「シーンの目的」をメタ的に固めていくテクニックだ。
これにより、他のPL(PC)は、シーンの目的から外れた行動をとりにくくなる。自然、シーンは配置目的に収束されていき、引き締まった物語が生まれていく。
他のPCに、別のやりたいことがある場合は、そのPCをシーンプレイヤーにしたシーンを別に起せば済む話だ。
自分のGMの場合、『オゼロンの魔術師』3回目のミドルフェイズ4で、坂の上と下で別のことを始めたので、坂から落ちたPCを一旦シーンアウトさせて「続きは次のシーン」でと告げた場面があったが、シーンの目的を収束させるのは、地味だけど重要だろう。余所様のサイトで「画面が汚くなる」という表現を見て、上手い言い回しに感心させられたものだが(画面という表現自体も、そこの影響)、物語的な演出を高めていこうとすれば、こうした配慮も必要になってくるのかな、と思う。
他には、『ブレカナ』のシーンイメージのタロットカードなども、「シーン目的を提示する技術」の変形だろう。
Karmaが『ホールデンの指輪』で使った「各フェイズにサブタイトルをつける」なども、同系の有用なテクニックだと思う。
GMサイドからPCにあらかじめシナリオ設定をつけ、PLに合わせてもらう手法。
基本的には「スタート位置の設定」であり、方向性の明示ルールではないのだが、「きちんと計算されたスタート位置」は、自然と「物語の全体像」を映し出す。
だから、「物語の方向性を、PL向けにメタ提示する」技術としての、側面も持っている。
具体的には、PC枠の提示は、大抵の場合、「物語の主役/脇役」の提示になっている。
そして、主役がどういう設定を持ったキャラで、脇役がどんな設定を持ったキャラなのかを見れば、物語の大筋の予想をつけるのはたやすい。
うちの卓の公開ログに好例があるので取り上げると、『ホールデンの指輪』がPC枠/ハンドアウトを使ったセッションだったが、スタート時の状況だけで、PLの立場からであっても、シナリオの展開が予想できてしまう。
PC1はホールデンを仇として追っている、PC2はホールデンの血縁者。この立ち位置での開始となれば、「PC1とPC2がお互いの目的を知る瞬間」が、必ず、物語的な山場になる。そしてもうひとつ、「ホールデンと対峙する」場面も、約束された山場になるだろう。
この読みに基づき、PC1とPC2のPLは、「あえてお互いの目的に気付かないまま、信頼関係を深めていく」というプレイを自覚的に行い、「お互いの目的を知る瞬間」のドラマを盛り上げていった。
つまり、PCの視点から離れたPLの視点(メタ視点)から、「物語全体の流れを俯瞰」し、「PLサイドからの物語づくり」を見事に実践したわけだ。
◇
この章では、自分がたまたま知っているテクニックだけ、それも基本のみを取り上げたが、他にも、TRPGのメタ進行支援技術は、いくらでもあるだろう。
また、今後もどんどん生み出されていくと思う。この記事も、すぐに風化しそう・・・・・・というか、もう風化してるかも。
自分、あんまりTRPGのシステム、知ってる方じゃないし。この話、あくまで概要程度に考えてもらえれば、と。
どうも説明が冗長になったので、たとえ話を使って整理すると・・・。
演劇に例えれば、TRPGのセッションは「舞台」、シナリオは「脚本」、GMは「監督」、PCは「役」、PLは「役者」だ。
「役者」は、「役」を熱演することが求められるが、しかし、「役」とまったく同じ思考をするだけでは勤まらない。
良い「役者」は、監督と同じ視点から「脚本」を客観視し、「物語全体を俯瞰して自分なりに演出を考えたうえで」役を演じる。
「自分のスタイル(PCのキャラクター性)」と「脚本の趣旨(物語の方向性)」の両方を踏まえたうえで、監督(GM)とすり合わせを進め、「監督と役者の持ち味が融合した」物語を仕上げていく。
TRPGは、セッション中に「脚本」が書き変わっていく、又は「脚本の一部が白紙になっている」演劇のようなものだ。
ここで、古参のTRPGゲーマーなら、「何を言っているんだ、演劇と違って、役者(PL)は脚本(シナリオ)を見れないだろう? シナリオの先がわかったら、ゲームがつまらなくなる」と考えるかもしれない。
ところが、見れちゃうのだ。
今回紹介した「メタ進行」とは、つまり、「監督が、役者にあらかじめ脚本を見せてしまう」ということ。
「メタ進行」などと難しく呼んでみても、本質はそれだけのことに過ぎない。
もちろん、ゲームだから、すべての脚本を見せたりはしない。
見せる脚本は、あらすじだけだったり、途中までだったり、幕間に小出しで教えたり、肝心の部分だけ白紙になっていたり。
演劇の脚本に比べれば、役者への縛りは、ぜんぜん少ない。
だけど、それだけでも、効果は絶大。
先の展開を知ることで、役者は、びっくりするほど濃密に、かつ身軽にアクションをかけられるようになる。
また、「問題解決のゲーム性」は多少薄れるかもしれないが、PLはかわりに、今まではGMが独占していた「物語づくり/演出」という新しい遊びを手に入れる。
そして、「GMから与えてもらうサプライズ」が減るかわりに、「他のPLから飛び出してくるサプライズ」を手にするわけだ。
TRPGで、「物語の要件」をクリアする手っ取り早い方法は、「GMが脚本を預かる」ことだ。
GMは、物語の全容を最初からすべて知っているのだから、当然、物語全体を俯瞰した視点など、最初から持っている。だから、進行や演出をGMが預かれば、PLがメタプレイをするしないに関わらず、物語はスムーズに進行する。
実際、古いTRPGは、ほとんどがこの手法を基本にしていたし、「オゼロンの魔術師」初回もこのスタイルでスイスイ流れている。
これは、本質的に「吟遊詩人GM」の方法論と同じだが、実際のところ、これでも大した問題はないように思う。
「吟遊詩人GM」が叩かれるのは、PCへの誘導手腕が拙く、やりたいことをさせないからだ。PCに展開を預けても支障ないところは預け、「行動の自由度」を維持しながら、肝心の部分は自動的に進行するようマスタリングすれば、進行はかえってスムーズかもしれない。
実際、「GMが脚本を預かる」マスタリングの方が、(巧拙は別にして)未だに主流のように思う。
FEARのリプレイで、名物PLの田中天がやる、「自分イベントでっちあげ」「NPCの乗っ取り」等のプレイ(通称天プレイ)を、「暴走」「危険」「本来GMがすべき行為をPLが勝手にやってしまう」とネガティブに捉える人は、かなり多いように思う。実際、「自分がGMのときは、この手のプレイは遠慮してほしい」と考えるGMは、かなり多いのではないのだろうか。
この反応の背景には、「脚本や演出はGMが掌握すべき領域で、PLは脚本に手を出すべきではない」という認識がある。
しかし、GM側に、「PLも、GMと同じ、物語づくりのメタ視点を持っている」という認識が出来上がっていれば、「PLが行うGM的な行為」を危険視する必要はない。むしろ、演出や展開をひねり出す脳みそが「GMのひとつだけ」から「当該PLとGMのふたつ」に増え、アイデア2倍のうえ進行も楽になったのだから、歓迎すべきシチュと考えることもできる。
天プレイを見て、「シナリオを壊される」と考えてしまうこと自体が、「GMひとりでシナリオをコントロールしている」意識が強い表れなのだ。そしてまた、田中天が適当に荒らしているのではなく、「PCではなくPLの視点から、物語全体の流れを見据え、自分なりの計算があって、物語を面白くしようと試みている」ことに気付かないのも、「PLのメタ視点」への意識の弱さだ。
実際、田中天のプレイを良く見れば、常に「PC視点の利害」にまったく左右されないプレイをしている。お姫様が攫われるのを拒絶するなど、「GMが本当に困ること」はやらないのだ。「めちゃくちゃやっているように見えて、実は、まとめかたを自分でちゃんと考えてある」のが、彼のプレイの良いところ。彼は、典型的な「GMの視点を備えているPL」だと思う。
ともあれ、「GMが脚本を預かる」マスタリングは、決して過去のスタイルではないし、それほど悪いものでもない。
少なくとも(物語志向のセッションを目指すなら)、PC視点に丸投げして右往左往するよりは、ずっと洗練されたスタイルだろう。
だが、そこからもう一歩進んで、「PLが直接、展開をダイナミックに操作できる」セッションをやろうとすれば、PL自身が、演出や山や落ちや意味を「自分自身で計算し」、実現するよう立ち回る必要が出てくる。
GMから「脚本(の一部)」を手渡され、「脚本」を共有する立場となったPLは、「物語を客観視する視点(メタ視点)」を使うことで、本来「GMの領域」とされている部分にまで、活動圏を広げることが可能になる。
つまり、「PLがGM化する」ということだ。
「物語全体を俯瞰する、PLメタ視点を使う」というのは、結局のところ「PLが、GMと同じ視点で動く」ということである。
「メタ進行」スタイルにおいても、メインの進行役はもちろんGMなので、「PLがサブマスター化する」という表現の方が適切だろうか。
このスタイルは、突き詰めれば「展開の多くの部分をPLが考えてくれる」「GMがミスしてセッションが停滞しても、サブマスター(PL)が収拾して進めてくれる」ということにもなり、実は、GMにとってもやさしいスタイルだとも思っている。